ある金融機関の経営会議に同席した時のことだ。大手コンサルティングファームの最終報告書が提出され、データも揃い、市場分析もロジカルに組み上げられていた。根回しも済んでいる。役員たちの表情に異論の気配はない。議論は粛々と進み、決裁に向けて動き出そうとしていた。
ただ、一人だけ、微妙に間合いが違う人がいた。
その役員は報告書の内容に反対しているわけではなかった。質問もしない。ただ、「念のため確認させてください」という言い方で、すでに説明された箇所をもう一度聞き直した。会議の流れを止めるほどではない。しかし私には、あの言葉の裏に、本人すら言語化できていない違和感があるように見えた。
(正直に言えば、その違和感の正体を最初から見抜けたわけではない。後から振り返って初めて輪郭が見えてきた)
「借り物の確信」が生まれる構造
彼が抱えていたのは、分析への不信ではなかった。むしろ逆だ。データも市場調査も、コンサルタントの論理構成も、すべて筋が通っている。それなのに、何かが引っかかる。その「何か」に名前をつけられないまま、会議は決裁に向かおうとしていた。
日本の企業にはこの構造が根深くある。稟議が回り、合議が成立し、外部の専門家がお墨付きを与える。そのプロセス自体は合理的だし、それ自体が間違っているわけではない。ただ、プロセスが精緻であればあるほど、その結論に対して「でも、何か違う気がする」と言うことのコストが上がっていく。根回しが済んだ後に疑問を呈することは、日本の組織では単なる意見の相違ではなく、関係者全員の労力を否定する行為に近い。
結果として生まれるのが、私が「借り物の確信」と呼んでいるものだ。本人の判断ではなく、プロセスが生成した確信。報告書の論理を自分の論理として受け入れたつもりでいるが、腹の底では納得していない。厄介なのは、本人がそれを「不安」とは認識していないことだ。彼はそれを「慎重さ」と呼ぶか、あるいは「念のための確認」と呼ぶ。
分析と直感のあいだにある「隙間」
私のキャリアの原点はロンドンの金融市場にある。トレーダーとして働いていた頃、意思決定にはほとんど感情を入れなかった。損切りのルールは機械的に守る。人間の感情が介在すると、損失を確定できずにポジションを持ち続け、最終的に壊滅的なダメージを受ける。あの世界では、感情を排除することが生存の条件だった。
ただ、経営の世界は違う。人間の感情や関係性が介在するからこそ、論理的な予測を超えた価値が生まれる。二人の人間が信頼で繋がり、何もないところから価値を生み出す時、その成果は論理的に予測可能な範囲を大きく超えることがある。音楽家たちが即興で合奏する時に起きる、楽理では説明できない共鳴のようなものだ。阿吽の呼吸で動く経営チームには、分析では捉えきれない何かが生まれる。
正直に言えば、あの環境が私にかなりの力をつけてくれたのも事実だ。トレーディングで鍛えられた「何かがおかしい」という感覚は、今でも私の仕事の中核にある。経営者と話していて、言葉の選び方が微妙に変わる瞬間、視線がほんの一瞬だけ泳ぐ瞬間、そういった小さなサインに気づくようになったのは、あの経験があったからだ。
だからこそ言えるのだが、分析が示す方向と、意思決定者が感じている方向のあいだに隙間がある時、その隙間を無視してはいけない。私のところにまだ話をしに来ているということは、本人が自分の判断に納得していないということだ。分析を信じているなら、もう動いているはずである。まだ話しているということは、分析では捉えきれない何かが残っている。その「何か」こそが、後になって最大のリスクとして表に出てくるものであることが多い。
「正しい判断」ではなく、「よい判断」
ここで一つ、私が強くこだわっていることがある。「正しい判断」という言い方を、私はできるだけ避けるようにしている。正しいか間違いかの捉え方には個人差があり、後からしかわからない部分も大きい。私が使いたいのは「よい判断」という表現だ。
よい判断をする人たちには共通する特徴がある。多くのことに対して開かれた心を持っているということだ。「成功とはこういうものだ」という定義を狭く、精密に持っている人ほど、よい判断にたどり着く確率は下がるように思える。なぜなら、狭い定義に合致する結果しか「成功」と認めないのであれば、そこに至る道筋も狭くならざるを得ないからだ。
これは私自身の経験からも言えることだ。金融の世界からコンサルティングの世界に移った時、「正しい答え」を出すことがプロの条件だと思っていた時期がある。だが、経営者と長く付き合う中で気づいたのは、本当に役に立つのは「正しい答え」ではなく、その人が自分の判断に立ち戻れるための問いだった。
日本の経営者には、ここに独特の強みがある。曖昧さに対する耐性が、欧米の経営者に比べて高い場合が多い。白か黒かを即座に決めなくても、グレーゾーンのまま物事を進められる。複雑な意思決定において、これは本来大きなアドバンテージだ。
ただ、ここに矛盾もある。曖昧さには強いが、その曖昧さの中身を言語化し、直接的に問い直すことには慣れていない場合が多い。グレーゾーンを許容できるのに、そのグレーゾーンの中で何が本当に引っかかっているのかを声に出せない。これは個人の能力の問題というより、環境の問題なのだと思う。役員会の空気、先送りの慣行、「まぁ、やってみましょうか」という合意形成のパターン。それらが、違和感を表明するための回路を構造的に塞いでいる。
今日の判断は、もっと前の判断が作っている
意思決定について考える時、見落とされがちなことがある。今日よい判断ができるかどうかは、今日の情報や分析だけでは決まらない。もっと前に下した判断が、今日の判断の質を規定しているということだ。
ある製造業の経営者が、業績が安定している時期にERPシステムの粒度を上げる投資をした。当時、社内では「なぜ今やるのか」という声もあった。ところが数年後、キャッシュフローが逼迫した局面で、その粒度があったからこそ、どこを削り、どこを維持し、どこに追加投資するかという判断が、ゼロサムの奪い合いではなく、複数のレバーを持つ調整可能な問題として扱えた。
テニスのグリップを数ミリずらしただけで、突然ボールが正確に、力強く打てるようになる。あの感覚に似ている。調整そのものは小さいのに、結果の変化は調整の大きさに比べてはるかに大きい。危機の最中に選択肢を作ることはほとんど不可能だ。選択肢は、平時のうちに、地味な判断の積み重ねによって作られる。
(本人にその自覚がないことがほとんどだが)
あの役員の「隙間」に戻る
冒頭の役員に話を戻したい。
彼の違和感は、結果的に的を射ていた。報告書が前提としていた市場環境の一部に、彼の現場経験からしか見えない変数が抜けていたのだ。ただ、それを会議の場で「この報告書は間違っている」とは言えなかった。言えるはずもない。数千万円のプロジェクトの成果物を、一人の直感で覆すことは、日本の組織では構造的にできないようになっている。
私の役割は、あの隙間を言語化する手伝いをすることだった。彼が感じていたものは「不安」ではなく、まだ言葉になっていないパターン認識だった。長年の現場経験が蓄積した知見が、分析の言語に変換される前の状態で存在していた。それを「念のための確認」として片付けてしまえば、組織は最も深い知見を持つ人間の判断を、構造的に無視することになる。
意思決定とは、多くの場合、二者択一ではない。異なるアジェンダやビジョンが共存できる道を見つけることだ。あの場合も、報告書を否定する必要はなかった。報告書が捉えきれていなかった変数を組み込む余地を作ればよかった。
隙間は、埋めるべき欠陥ではなかった。隙間が語ることを許す構造があるかどうか。問われているのは、そこなのだと思う。