ある外国人創業者から、開発者を解雇したいと相談されたことがある。契約書には1ヶ月前の解雇通知という条項があり、彼はそれを文字どおりに受け取っていた。30日で引き継ぎを終え、2ヶ月目には新しいエンジニアを迎える計画だったらしい。結果として、その開発者を会社から外せたのは、ほぼ1年後のことだった。
日本のビジネス文化や、海外との橋渡しについて書かれている記事の多くは、二つのどちらかに分かれているように思える。日本人が書く「日本のここがおかしい、もっと近代化すべきだ」という議論。あるいは海外から来た人が書く「日本のこの慣行や規制で、自分はこれだけ苦労した」という記事。どちらも、特定の事件や慣行を取り上げて、最終的には「だから、こう変えるべきだ」という結論に向かっていく。両方とも、それなりに筋は通っている。ただ、私がいつも物足りなさを感じるのは、「なぜそうなったのか」を時間をかけて考える姿勢が、ほとんど見られないことだ。文化の違いも、外国人が直面する不便な制度も、誰かが意地悪で作ったものではない。長い時間をかけて、その社会の大多数のために設計されてきた仕組みの結果なのだと思う。
「より良い」が指すものが違う
日本が正しいとか、欧米が正しいという話ではない。「より良いとは何か」という定義そのものが、文化によって違うのではないだろうか。それなのに、ほとんどの異文化論は、その定義は共有されているという前提の上に組み立てられている。共有されていない。
日本という国は、外の世界に開いて約150年しか経っていない。その前の長い時間、日本は「自分たちのやり方」をどう磨くかに集中していて、他国にどう見られるかは、それほど気にしていなかった(もちろん、その積み上げ方がいつも美しかったわけではないのだけれど)。だから、いま「日本のやり方」と呼ばれているものは、誰かが計画的に作ったというより、長い時間をかけて、その国の多数派のために自然に積み上がってきた構造なのだと思う。
これを、ナショナリズムや排他性の話に短絡させたくはない。これは、人間という生き物が、十分に長い時間と十分な文化的まとまりを与えられたときに、自然にとる行動なのだと思う。自分たちのコミュニティのなかで、自分たちなりの「正解」を作り上げ、外の世界の答えと比較するのをやめる。日本の「答え」は、それを発展させる時間が長かったぶん、よく守られている。それに、日本人自身が、自分たちのやり方が「うまくいっている」と知っている。完璧ではないし、すべての場面でうまくいくわけでもない。それでも、別のやり方に置き換える積極的な理由が見つからない程度には、これまで機能してきた。
契約書に書かれていないこと
冒頭の創業者の話に戻る。彼が見落としていたのは、契約書に書かれていない部分だった。日本では、雇用契約書に「1ヶ月前の解雇通知」という条項があったとしても、契約書のとおりに従業員を解雇できるとは限らない。労働契約法のもとでは、解雇が公正と認められるためには、雇用者がそれ以前に他の選択肢を尽くしたことを示す必要がある。配置転換、業務改善指導、警告。それらをすべて経たうえで、解雇が「やむを得ない最後の手段」であると説明できなければならない。
つまり、契約書は物語の全部ではなく、「文字に書かれた部分」でしかない。書かれていない部分がある。そして、その書かれていない部分こそが、いちばん重要であることが多い。
なぜこうなっているのか。歴史を引き合いに出すのは本意ではないのだけれど、ここはどうしても触れざるを得ない。戦後復興期、日本企業は終身雇用を含む暗黙の社会契約を担っていた。みんなで国を立て直すために、雇用は安定していなければならなかった。敗戦は経済だけでなく、人々の心にも深い影響を与えた。その時代に対応するために設計されたのが、流動性よりも安定性を重視する労働制度だ。いまの若い世代は、もう終身雇用を当然とは思っていないし、ギグエコノミーも日本社会に大きく入り込んできている。それでも、法律も、社会保障も、世間の感覚も、そう簡単には変わらない。日本にはいまもなお、第二次世界大戦を実体験として記憶している人が、600万人以上いる。社会の根幹を支えてきた仕組みを更新するには、それなりの時間がかかる。
正直に言えば、私自身、この日本の仕組みが理解できなくて、長く悩んでいた時期がある。スプレッドシートに落とし込めるような、明確で数値化できる優位性を探していた。結局、そんな優位性は見つからなかった。代わりに見つけたのは、もう少し地味で、もう少し有用な認識だった。戦後の混乱の文脈のなかで、この仕組みは機能してきた。それが他のシステムより優れていると言いたいわけではないし、更新する必要がないと言いたいわけでもない。ただ、なぜそうなのかを理解しているかどうかで、その制度のなかで下す判断の質が、ぜんぜん違ってくるのだと思う。
対立回避だけではない
コミュニケーションについても、同じ形の議論が当てはまる。本音と建前という言葉は、海外のビジネス書でも何度も取り上げられてきた。それらの分析は、ほぼ例外なく「対立回避の手段」という説明に落ち着いている。対立回避という側面は、たしかにある。ただ、それだけにしてしまうと、本音と建前が果たしているもう一つの機能が見えなくなってしまう。外から日本のなかに入って仕事をする経営者にとって、いちばん有用なのは、まさにそちらの機能なのだけれど。
私の見るところ、本音と建前は、日本でもっとも洗練されたコミュニケーションのあり方の一つではないだろうか。うまく使われたとき、それは相手に対して、感情や強い問いを投げ込む前に「この会話をどこへ持っていきたいのか」を信号として伝える役割を果たす。たしかに、難しい問題を埋めてしまう便利な手段にもなりうる。けれど、それと同じくらい、難しい会話を効率的かつ敬意を保って進めるための装置として機能している。
そこで可能になる動きは、英語に置き換えるのが難しい。たとえば、「あなたを信頼しているし、あなたとビジネスをしたい。ただ、私の手の届かないところにあるものがあって、いま、私たちのあいだの障害そのものに労力をかけるよりは、関係そのものを育てて、別の機会を一緒に探したほうがいい」というような感覚。目の前の問題には「はい」とも「いいえ」とも答えていない(もちろん、本当は「いいえ」なのだけれど)、それでいて、もっと長く続く何かには「はい」と言っている。同じ会話を、たとえば英語ですると、ずっと難しくなる。まず「No」と言ってから、その理由を説明することが期待される。説明が終わるころには、会話の温度感はもう、最初とはまったく違うものになっている。
同じ構造が、会議にも現れる。日本の典型的な会議は、欧米のそれよりも参加者が多く、時間も長い。これを「批判的に思考する力の不足だ」と読むこともできる。戦略を、その内容と率直な批判にもとづいて議論することに、人々が居心地の悪さを感じている、という見方だ。正直に言えば、これは私もある程度、認める。日本社会の最大の課題の一つだと思っている。ただ、別の読み方もある。会議の目的は、会話の方向性のトーンを設定し、参加者全員の期待値をだいたい揃えるところにある、という読み方だ。鋭い、的を射た、批判的なコメントは、会議の場ではなく、個人と個人のあいだで、会議の前後に共有される。会議のアジェンダには、本音の共有は入っていない。どちらの読みも同時に成り立つ。日本でビジネスをする経営者は、その両方を抱えて動かなくてはならない(そして、これは書くよりずっと難しい)。
ふたつの文化のあいだから
私は二つの文化のあいだで育ち、日本とヨーロッパ(主にイギリス)で過ごした時間がほぼ同じくらいある。だから、ロンドンで「うちのチームミーティング、どうしてあんなに対立的なんだ」と戸惑う日本人駐在員も、東京に来て3週間で「自分は除外されている、理解されていない」と感じはじめる欧米の経営者も、両方の立場が、ある程度、想像できる。これは私のなかでもいまだに片付いていない、現在進行形の課題だ。
日本で初めて会う人は、いまでも私が日本語を話さない、あるいはあまり話せないと前提していることが多い。流暢に日本語を話す外国人が増えてきているおかげで、徐々に変わりつつあるけれど。私が流暢に日本語を話し始めたとたん、相手はだいたい二つのうちどちらかに振れる。「この人は日本人と同じように考えている」と前提する場合と、もっと少ないけれど「日本語を話せる西洋的な思考の人だ」と前提する場合だ。実際は、私はそのどちらでもない。摩擦は、まさにその「どちらでもない」ところに住んでいる。多くの外国人経営者は、その摩擦に名前をつけられないまま、そのなかにいるのだと思う。
次の判断のために
あなたを動かしているのが日本であれ、ほかのどこであれ、あなたの邪魔をしている規制や社会的規範は、誰かが思いつきで作ったものでも、たまたま流行ってそうなったものでもない。それらには必ず社会的な文脈がある。日本人の従業員との関係がうまくいかなくて、契約書の「1ヶ月前通知」に手を伸ばすとき、見落としているのは契約書のなかにはない情報だ。そのうちのいくらかは、ほかの国の契約書には登場しない法律のなかにある。そして、もっと大きな部分は、日本の組織のいたるところに見える設計上の選択のなかにある。可能なかぎり、正面からの対立や衝突を避ける、という選択だ。
両方の側に座ってきた者として、ひとつだけ言えるとしたら、こうだと思う。あなたが解雇しようとしているその従業員は、あなたを困らせようとしているわけではない。彼らは多くの場合、自分が育ってきた社会の規範から導かれた、当然の権利を行使しているだけなのだ。同じことが、はっきりした答えをくれない取引先にも当てはまる。もう一通の書類を要求してくる規制当局や、会議の場ではなく別室で結論を出す上司についても、同じ構図が見える。彼らが障害なのではない。障害は、彼らのまわりにある構造のほうだ(その構造には、その構造なりの整合性と、その構造なりの理由があるのだけれど)。
私はいまも、これらの仕組みのすべてを好きだとは言えない。ただ、以前ほど、強い違和感は持たなくなった。理解は同意とは違うし、距離をおいて見ることは、それを擁護することとも違う。それでも、その両方は、誰かの社会の織り目のなかで本気の仕事をするためのコストであり、その織り目のなかでの判断が誠実であるための前提条件なのだと思う。「より良いとは何か」の定義は、文化ごとに違う。別の文化のなかで下す判断は、そこから始まらないかぎり、誠実なものにはなりにくいのではないだろうか。