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ファウンダー

誰も声を上げない部屋

株式の再編について話し合う場だった。6人がテーブルを囲んでいた。全員が優秀で、全員がそこにいる理由を持っていた。ファウンダーである彼は、2年かけてこのチームを作り上げていた。縁故採用は一切なし、全員が実力で選ばれ、すべてのポジションに明確な成果が紐づいている。彼はその日、反論を覚悟していた。対案も想定していたし、もっとも異議を唱えそうな人物への応答まで頭の中で準備していた。

ところが、返ってきたのは同意だった。静かで、丁寧で、全員一致の同意。部屋が止まった。その静けさの中に、彼がその場では言葉にできなかったものがあった。あれは合意ではなかった。敬意だった。そして、過半数の株式とビジョンの原点を握っている人間に向けられる敬意は、沈黙とまったく同じ音がする。

私はこういう場面に、自分が認めたいよりも多く立ち会ってきた。あの沈黙は、そこにいる人たちの問題ではない。彼らを集めた文化の帰結なのだと思う。

全員が「いるべき理由」を持っているとき

初期のスタートアップで優れたチームを作るということは、ある種の逆説を抱え込むことでもある。優秀な人を採用するというのは、この段階では、ビジョンに共感し、実行力があり、限られた資金の中で目に見える成果を出せる人を選ぶということだ。それ自体は正しい。むしろ初期の企業にとっては生存戦略そのものであり、そうしなければ会社が持たない。

ただ、その積み重ねの先に何が起きるかというと、組織の中のあらゆるポジションが「何を生み出すか」で正当化される状態ができあがる。売上を作る人、プロダクトを作る人、顧客との接点を持つ人。稟議を通すにも「この人は何をする人なのか」が問われる。これは実力主義の美点であると同時に、一つだけ致命的な欠落を生む。「あなたの考え方そのものを検証する」という機能が、どこにも居場所を持てなくなるのだ。

先ほどの株式再編の場を思い出してほしい。あのファウンダーのまわりにいた人たちは、全員が彼を支持していたし、会社の成功を望んでいた。その支持が、いざ判断を問うべき瞬間に、別の形を取った。反対意見があったかどうかは分からない。ただ、あの沈黙は「私もそう思います」とは違う何かだった。ビジョンを描いた人間への遠慮、自分の持ち分では最終的な結論を動かせないという構造的な現実、そしてこの人に意見することで何かを失うかもしれないという無意識の計算――それらが重なって、もっとも重要な決断のまわりに、誰も本音を口にしない空間ができあがっていた。

(厄介なのは、このファウンダーが独裁的だったわけではないということだ。むしろ対話を大事にする人だった。それでも構造が沈黙を生んだ。)

あの場に必要だったのは、決裁権とは無関係な立場からものを言える人間だった。ところが、そのような役割は組織図のどこにも欄がない。

確信を演じるうちに、確信が自分になる

構造的な孤立の下に、もう一層、見えにくい孤立がある。そしてこちらのほうが、本人が最後に気づくものだ。

ファウンダーが人を集め、資金を調達するためには、確信を見せなければならない。「これがうまくいくか分からない」と言うファウンダーのもとに人は集まらないし、矛盾を率直に抱えている人間に投資は集まらない。確信を演じることは、この世界に入るための条件のようなものだ。

ただ、その演技を2年、3年と続けていると、どこかの時点で演技と本心の境界がぼやけ始める。私自身、事業を作り、人に助言する立場を長く続けてきた中で、この感覚には覚えがある。外に向けて見せている確信が、いつの間にか自分の内側の思考回路にまで影響し始める瞬間がある。疑いが消えるわけではない。ただ、疑いの声が小さくなる。自分に向かって開かれた問いを投げかけることをやめてしまう。なぜなら、自分が作り上げた人格はそういう問いを発しないからだ。決める。前に進む。その人格の中で生きることに慣れてしまう。

正直に言えば、外に見せている自分と、内側で感じていることとのあいだに生まれる隙間は、一人でしか過ごせない場所になる。その隙間の存在を認めることは、チームをつなぎ止めているものを揺るがすことになりかねないからだ。

ところが、良い判断というのは、まさにその逆の姿勢を要求する。不確実性の中に留まること。矛盾を急いで解消せずに、十分に見えるまで抱え続けること。もっとも確信に満ちた答えに飛びつきたい衝動を抑えること。3年間にわたって確信を演じ続けたファウンダーが、もっとも重要な局面で突然、曖昧さと向き合えるようになるかといえば――難しいだろう。演技はすでに仕事を終えている。そしてまわりにいる人たちは、彼を疑いの中に引き戻す立場にはない。

これは性格の弱さではない。スタートアップという仕組みがもたらす構造的な帰結だ。0から1を作る力――確信、速度、直感に賭ける覚悟――は、1から10に進む段階、まして10から100の段階で求められるものとは異なる。(本人にその自覚がないことがほとんどだが。)創ることと運営することはまったく別の能力であり、その切り替えはゆっくりと進むから、多くのファウンダーは古いやり方のまま走り続けていることに、何かが壊れるまで気づかない。

実力主義が覆い隠すもの

議論をもう少し深く掘り下げたい。

私が出会ってきたファウンダーの多くは、「答えを教えてほしい」とは言わない。分析力が足りないわけでもないし、情報も十分に持っている。彼らが求めているもの(本人にその自覚があるかどうかは別として)は、自分の判断の仕方そのものを確認できる場なのだと思う。「何を決めるか」ではなく「どう決めるか」。経験に裏打ちされたリスクの温度感。過去に似た状況でどういう落とし穴があったのかを知っている人間との壁打ち。その機能は、KPIでは測れない。四半期ごとの成果報告にも載らない。だから実力主義の論理では、採用の優先順位に入らない。

そしてもう一つ、組織の中ではまず起きない種類の会話がある。「この事業を手放した後、あなたは何をしたいのか。」「5年後もこの仕事を続けている自分を想像できるか。」「あなたにとって、犠牲にしたくないものは何か。」こうした長い時間軸の問いを、給与をもらっている人間が上司に投げかけることはまずない。取締役にも法的責任と議決権がある以上、この種の問いを持ち出す立場にはない。投資家はなおさらだ。

ところが、こういった問いに向き合わないまま日々の意思決定を続けていると、判断は短期的なリスクとリターンの計算に偏り始める。今のチームがそのまま続く。市場は成長し続ける。自分のエネルギーも持つ。こうした暗黙の前提が検証されないまま積み上がっていく。

日本の事業環境には、この構造をさらに増幅させる力学がある。私は日本の役員会に長く関わってきたが、あの場に漂う空気の重さは独特だ。慎重さというよりも、直接的な問いかけそのものが場にそぐわないという感覚がある。よく言われる「日本はリスクを嫌う」という説明は、的を外しているように思える。嫌っているのではなく、リスクについて語る言葉と場が限られているのだと思う。多くの場面で、議論が二択に収斂する。「腹を括るか、括らないか。」「やるか、やらないか。」その間にある無数のグラデーション――どの程度のリスクなら許容できるのか、どの条件が変われば判断の性質そのものが変わるのか――について丁寧に掘り下げる習慣が、あまり育っていないように見える。それ自体が間違っているわけではない。合議制や根回しの文化には、リスクを組織全体で引き受けるという知恵がある。ただ、ファウンダーのように一人で判断の中心に立つ人間にとっては、リスクの濃淡を語り合える相手がいないことが、孤立を一段深くする。

正直に言えば、スタートアップの世界で支配的な「大きくなるか、ならないか」という物語も、同じ構造を持っている。ユニコーンを目指すか、やめるか。ただ、統計的に見れば、ユニコーンにならない確率のほうが圧倒的に高い。それは失敗を意味するわけではないのだが、成長の物語が支配的な環境では、「大きくならないが、持続的に価値を生む事業」という選択肢について冷静に考えることが難しくなる。私はこれまで、「本当はそういう事業のほうが自分に合っているかもしれない」と小声で認めるファウンダーに何人も会ってきた。それを口にすることが、チームへの裏切りのように感じられ、自分自身のアイデンティティを否定するように感じられる――そのことが、判断をさらに歪めているように思う。

その会話は、どこから始まるのか

ファウンダーの孤独について書かれたものは多い。メンターを見つけなさい、同じ立場の仲間と語り合いなさい、コーチをつけなさい。ただ、そのどれもを試した上で、同じ場所に留まっているファウンダーを私は何人も見てきた。助言が足りないわけではない。足りないのは、ある特定の種類の会話なのだと思う。

では、その会話はどういうものなのか。

意外に聞こえるかもしれないが、もっとも効果的な入り口は、出口の話だ。事業をどう畳むか、あるいはどう手放すか。今まさに作っている最中にそんなことを考えるのは矛盾しているように見えるが、その距離感にこそ意味がある。そこから、会社とは関係のない個人の問いに移っていく。10年後にどういう人生を送りたいのか。何を犠牲にしたくないのか。最初の興奮が薄れた後、何が自分をここに留めているのか。そして最終的に、多くのファウンダーが一度も聞かれたことのない問いにたどり着く――この事業の後、あなたの人生はどうなるのか。

これらの問いは、雇用関係の中では決して生まれない。だからこそ、組織の外にこの種の思考のパートナーを持つことには意味があるのだと思う。

コンサルタントのように課題を定義して解決策を出す立場でもなく、取締役のように法的責任と議決権を持つ立場でもない。必要なのは、何の権限も持たないからこそ、ファウンダーの思考そのものに触れられる立場の人間だ。壁打ちという言葉が近いかもしれない。ただ、一回きりの壁打ちではなく、その人の事業と人生の文脈を長期にわたって共有している壁打ち相手。かつての武家における懐刀のように、意思決定の場に同席しながらも、意思決定そのものには関与しない。

私はこの種の思考のパートナーシップが機能している場面を見てきたが、変化は劇的なものではない。突然の閃きがあるわけでも、正解が降ってくるわけでもない。変わるのは、思考の質だ。冒頭で描いたような――ある結論に達し、不安を覚え、同じデータを見直し、また同じ結論に戻る――あの堂々巡りが、少しずつ別のものに変わっていく。前提を誰かの経験と照合できるようになる。確信の裏側で抱えていた恐れに名前をつけられるようになる。そして、自分が格闘していた問いが、実はもっと深いところにあるもの、つまりアイデンティティや手放すことへの恐れやコントロールへの執着をめぐるものだったことに気づく瞬間がある。その瞬間に浮かぶ安堵の表情を、私はいくつか覚えている。

その機能の本質は、答えを提供することではない。処方箋を出した瞬間に、価値は失われる。大切なのは、ファウンダーが自分の判断に十分な注意と愛情と当事者意識を注ぎ込めるような思考の環境を作ることだ。そうして「ここまでやった」と確認できた判断であれば、結果がどうであれ受け入れられることが多い。少なくともしばらくの間は。次の大きな問いが現れるまでは。そして次の問いは必ず現れる。変わるのは、それに一人で向き合うかどうかだ。


あの株式再編の場を、ときどき思い出す。優秀なチーム、実力主義の文化、全員が自分の席にいる理由を持っていた。すべてが設計どおりに機能していた。ただ一つ、あの部屋が生み出せなかったものがある。どんな成果指標でも、どんな役割定義でも、その存在を正当化できない人間――実行するためではなく、一緒に考えるためにそこにいる人間だ。

あのファウンダーがその存在を受け入れたかどうか、仮にそれが差し出されていたとしても、正直なところ分からない。あの沈黙は、ある意味で居心地のいいものでもあった。文化が確認すべきことをすべて確認してくれていた。ただ、あの沈黙にはできないことがあった。聞くべき問いを、聞くことだ。

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