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意思決定

一枚岩の死角

ある国際的な団体の戦略アドバイザーを務めていたことがある。ちょうど、その団体が自らのアイデンティティを問い直さざるをえない時期だった。

数あった会議のなかで、いちばん張り詰めていたのは、団体のビジョンとミッションを一つに揃えるかどうかが問われた場面だ。私を含め、その定義には幅があってよいと考える人間が何人かいた。団体が世の中にもたらそうとしているものの表し方は、一つに限らなくていいはずだ、という立場である。ところが当時のその団体には、具体的で輪郭のはっきりした、たった一つの定義を選ぶ以外の余地が、ほとんど残されていなかった。

会議の空気だけ先に書いておきたい。それは、異なる解釈が存在しうること自体を問い直してはならない、というどこか教義めいた緊張感をはらんでいた。声を荒らげる人もいた。そこにあったのは、怒りというよりも恐れだったように思う(自分たちが築こうとしてきたアイデンティティを、いままさに失うかもしれない、という恐れだ)。

会議の結論は、一つに統一された有限な定義でいく、というものだった。そして数年が経ったいま、その団体はその決断のせいで、静かに、しかし確かに傷んでいる。


統一が招いた希薄化

なぜ傷んでいるのか。統一された定義は、たしかに当初はわかりやすく、団体を一つにまとめる力を持っていた。ただ、その団体が世界のさまざまな地域へと活動を広げていくにつれて、事情が変わってきた。たとえばイノベーションという言葉ひとつをとっても、それが意味するものは地域によって驚くほど違う。一つに定めたはずの定義は、その違いにぶつかるたびに少しずつ薄まり、やがて、統一によってこそ避けたかったはずの希薄化を、自ら招いてしまった。皮肉な話だ。

この希薄化の底には、もっと一般的な仕組みがある。強く一つに揃ったビジョンのもとでは、その外側から問題がやってきても、それがどこから来たのかが見えない。原因の在り処がわからないまま、定義そのものが力を失っていく。

遠い団体の特殊な事情に聞こえるかもしれないが、ビジョンが揃っていることを美徳として称える声は、そこら中にある。少し前にも、LinkedInであるファウンダーの投稿を見かけた。自分の会社は共同ファウンダー同士がビジョンで完全に一致していて、本当に恵まれている、という趣旨の投稿だ。コメント欄には称賛が並んでいた。中核メンバーがビジョンで揃っていることは何より大切だ、と(あなたも、そうした投稿に頷いたことがあるかもしれない)。

その投稿は、私の頭の片隅に小さな棘のように引っかかった。何かが確かにずれている気がしたのだ。だから私も、あまり否定的にならないよう気をつけながら、こんな趣旨のコメントを書いた。ビジョンで強く揃ったチームは、物事がうまくいっている間はとても速い。ただ、いざ何かがうまくいかなくなったとき、ほぼ決まって、より深く苦しむことになる、と。揃っていることは、良い時には強さになり、悪い時には脆さになる。


採用の条件を変える

もう少し自分に近いところへ話を移したい。私がかつて共同で立ち上げた会社の話だ。

始まりは、ファウンダーたちのビジョンだった。それに惹かれて集まった初期のファンが支援者になり、やがて何人かは社員になった。彼らの多くは、その強い信奉者だった。ここに、当時はうまく言葉にできなかった難しさがあった。明確に掲げられたビジョンゆえに集まってくれた人たちは、その信念が絶えず確認され続けることを必要としていた。そして、それを信じていること自体に、報われていると感じたがっていた(強い言い方はしたくないのだが、折に触れてそう感じることがあった、という程度の話だ)。

一方で、私たちファウンダーの仕事は、事業が常に現実の世界を見続けることを保証することだと信じていた。世の中の需要は変わり続けるし、世に問うべきイノベーションの形も移り変わっていく。だから私たちは、ビジョンの語り方を時々調整していた。ところが、その微調整を、信じてくれているメンバーの何人かは落ち着かない気持ちで受け取った。一度ならず、彼らは、私たちが本来のビジョンに忠実でなくなっているのではないか、という懸念を口にした。うまく言葉にできないまま私たちのビジョンに追いつけずにいる姿は、彼らにとって、とても居心地の悪いことだったのだと思う。

そこから私と共同ファウンダーは、採用の仕方を変えた。ビジョンの一致を、必須条件ではなく、あればよい程度のもの、時にはむしろ避けるべきものとして扱うようにしたのだ。根っこにあったのは、ある受け入れである。どれだけ努力しても、私たちがこの世界について知りうることよりも、決して知りえないことのほうがずっと多い。その事実に実直に向き合おうとするなら、自分たちのチームが世界をどう理解し表現するかについて、開かれていなければならなかった。

この変化が効いたのは、意外にも、クライアントと向き合う場面だった。私たちの中心的な仕事はコンサルティングだが、そこには、ずっと一つの困りごとがあった。こちらの経験や思考の深さが、時にクライアントを萎縮させてしまうのだ。私のような人間と対等に話すことに気後れし、的外れなことを言って恥をかくのではないか、と身構えてしまう。

ここで、ビジョンの揃っていないメンバーたちが助けになった。彼らは時に、コンサルティングの核心にある概念が自分にはうまく掴めないと正直に打ち明け、あるいはイノベーションや事業そのものを、私たちとは違う言葉で語った。それがクライアントの気後れを和らげた。それだけではない。ビジョンの点で多様であること自体が、クライアントに一つのことを指し示していた。あなたの組織も、同じでなくていい。強力なリーダーのビジョンが会社の隅々まで行き渡り、全員がそれを支える必要はない。現実はむしろ、私たちがそれぞれ違うやり方で物事を語り、世界やビジョンを表現している、というところにこそある。

実際、目の前にいる相手は、ある段階までは、こちらが社会や革新にどんな影響を残したいかなど気にも留めていない。それなのにビジョンの一致を期待して臨めば、たいてい肝心なところを丸ごと取り逃す。


ビジョンをどれだけ強く握るか

なぜ、これほどの採用方針の転換が、実際に機能したのだろうか。

私が思うに、感じられる問題の深刻さは、自分たちがビジョンにどれだけ厳格かによって変わってくる。ビジョンをもっと緩やかに構えているチームなら、問題が起きても、その深刻さはたいてい小さくてすむ。どこからその問題が来たのかが、見えているからだ。逆に、たった一つの厳格なビジョンだけがある部屋では、問題が起きても、その出どころも、背後の理屈も、わからないままになりかねない。

ここで、当然の反論が出てくる。では、ビジョンなど持たないほうがいいのか。そうではない。ビジョンに一致しない人も、強く掲げる人も、すべてを分け隔てなく迎え入れたなら、その組織はビジョンの面で平らになる。多様で、そして平らだ。そこにはもう、信じる者も信じない者もいない。私が関心を寄せているのは、強く揃った組織が、それでも少しだけ開こうとするとき、何が起きるか、のほうである。

つまり、強く一つに揃っていながら、それでもなお、疑われる余地を意図的に残している組織である。そういう組織を支えているのは、共有された信念ではない。むしろ、共有されたある種の謙虚さだと思う。世界について、自分たちが知りうることよりも知りえないことのほうがずっと多い、というあの受け入れだ。揃っているのに開いている。この矛盾めいた状態こそが、実は最も現実に近いのではないだろうか。

いくつかの研究が、ここに補助線を引いてくれる。結束の固い集団が異論を抑え込み、他の選択肢を吟味する力を鈍らせてしまうことは、アーヴィング・ジャニスが集団浅慮と呼んだとおりだ。役割として割り当てられただけの「反対役」には効果がなく、本物の異論だけが集団の判断を深くする、とシャーラン・ネメスの実験は示している(だから非信奉者は演じさせられない。実際に一人、迎え入れて語らせるしかない)。もっとも、多様性がいつでも優るわけではない。多様なチームが個々に優秀なだけのチームを上回るのは、ロー・ホンとスコット・ペイジによれば、あくまで決断が現実の問題を解かねばならないときだ。順境では、揃っていることの代償はさほど大きくない。


異論を、聞く

ここまでは、なぜそうなるのか、という話だった。では、すでにビジョンを築いてしまった意思決定者は、日々の場面で具体的に何ができるのか。

私自身がよりどころにしているのは、そう大それたことではない。ビジョンの言い方や、その理解の仕方に食い違いがあるとき、なぜその食い違いがあるのかを、敬意をもって、丁寧に尋ねる。それだけだ。聞くことが大事なのは、少なくともそれで、この食い違いが存在するという事実を私が知るからだ。そしてその食い違いは、現実の世界の縮図でもある。同時にそれは、同意していない当人にとって、自分の考えを声にし、受け止めてもらう機会になる。その意見を最終的な決断に取り込むかどうかは、私が選ぶ。ただ、取り込むにせよ取り込まないにせよ、私はその人に伝えなければならない。あなたの考えは確かに織り込まれた、と。少なくとも私は、その異論を聞く前とは、ほんの少しだけ違ったバイアスを帯びている。決断そのものが変わるとは限らない。それでも、自分の判断に何が効いているのか、その中身が、聞く前と後とで確かに書き換わっている。

正直に言えば、この実践には、大きな前提がある。ビジョンを分かち合い、建設的に批判し合う文化が、そこにあるという前提だ。そして日本では、その前提が必ずしも成り立たない。

日本において、ビジョンを共有するという行為そのものが、あまり見られない(近年、変わりつつあるとは感じているが)。言葉も文化も、この種のコミュニケーションをそれほど後押ししてこなかった。加えて、古典的な日本的感性を持つ人にとって、批判をしながら同時に建設的であることは、そもそも馴染みの薄い技だ。だとすれば、「意見が違うことを認め合う」という作法を、そのまま輸入して機能させられると考えるのは、いささか楽観的すぎるのかもしれない。

ただ、ここで合議という日本のやり方を思い出したい。合議制も、根回しも、それ自体が間違っているわけではない。ひとりの意思決定者に影響のチェックを集約させるのではなく、日本の合議は、そのチェックを集団全体へと分散させる仕組みだと捉えることもできる。声を上げての批判が稀であっても、手続きそのものが、意思決定者に働いているものを見えるかたちに保ち、問題がどこから来たのかを浮かび上がらせることは、できるはずだ。もっとも、これには条件がつく。合議や根回しが、違いを表に出すために使われるのか、それとも、違いを事前にならして予定調和へと収めるために使われるのか。同じ仕組みが、正反対の働きをする。非信奉者は、立ち上がって異を唱える必要すらないのかもしれない。その違いを、構造のほうが運んでくれる。私たちがそれを、ならして消してしまわない限りは。

こうして考えていくと、多様なビジョンに支えられた意思決定者が手にしているものが見えてくる。それは、同じ地点を眺め直す二番目、三番目の角度というより、決断が引き受けねばならない地面の、そのほとんどを覆うような広がりに近い。しかもその支えは、守りのためのものではない。これから先に向けて、自分の判断に何が効いているのかを絶えず点検し続けるための、前向きなものなのだと思う。

最初の会議室に戻ろう。いま思えば、あの部屋で本当に問われていたのは、ビジョンを持つか持たないか、ということではなかったのだろう。問われていたのは、問題の出どころが見えなくなるほど強く握りしめたビジョンなのか、それとも、出どころをたどれる程度にゆるく携えたビジョンなのか、という違いだったのだと思う。

現実の問題にできるだけ近く、できるだけ気づいていられること。それは、意思決定者にとって、最も安上がりにできることの一つだ。突きつけられる問題はたいてい狭く定義されているが、その全体像は、いつも人々が意見を違えている現実の世界へとつながっている。論理の上での対立というより、その問題がどう解かれるべきか、良い状態とは何なのかについての、感じ方の違いである。

だから、聞けること。そして、誰かが同意していないと気づけること。誰かが間違っているからではない。ただ、その違いが存在しているからだ。そのことに、とても、とても注意深くあること。意思決定者の仕事とは、つまるところ、それに尽きるのかもしれない。

要点

01

揃ったチームは順境で速く、逆境で脆い。同じ性質が、時間軸によって裏返る。これは、多様性が常に優るという話ではない。

02

ビジョンを厳格に共有するほど、問題が起きたときにその出どころは見えなくなる。深刻さは、厳格さに比例する。

03

声を上げての批判が稀な文化でも、合議は影響のチェックを手続きとして分散させうる。ただしそれは、違いを表に出すために使われる限りにおいてだ。

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