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意思決定

「借り物の確信」が最もリスクの高い判断を生む

ある経営者が相談に来た時のことを、今でもよく思い出す。

彼はすでに大手コンサルティングファームからの提言書を手にしていた。データも揃っていたし、ロジックに穴はなかった。社内の根回しもほぼ終わっていた。にもかかわらず、彼は私の前に座っていた。

普通に考えれば、もう決めているはずだ。分析は済んでいる。社内の合意形成も進んでいる。それなのに、なぜまだ誰かと話したいのか。

彼の確信には不自然な硬さがあった。自分の中から湧き上がった確信ではなく、外から与えられた確信――いわば「借り物の確信」とでも呼ぶべきものだ。彼自身はそれを迷いとは呼ばなかった。「最終確認をしたいだけです」と言った。ただ、最終確認をしたい人は、あのような目をしない。

分析が一つの答えを示し、自分の中の何かが別のことを言っている。この食い違いに気づいている経営者は、少なくないように思う。ところが、それを「食い違い」として正面から扱える人はほとんどいないのではないだろうか。

日本の企業文化では特にそうだと思う。稟議を通し、役員会で合議の方向性が固まり、外部の権威ある分析まで出てきた時に、「何か違う気がする」と言うのは相当な勇気がいる。根拠を問われるからだ。「データではこう出ています」「御社の業界ではこれがベストプラクティスです」と言われた時に、「でも、なんとなく引っかかる」とは言いにくい。(正直、私自身もコンサルタントとして提言する側にいた時期があるので、この構造の厄介さはよくわかる。)

だから多くの場合、食い違いは処理されないまま放置される。分析の方を信じるか、あるいは直感の方を信じるか、どちらかに寄せて決めてしまう。その食い違いが後になって、予想もしなかったリスクとして表面化する。


あの経営者の場合もそうだった。彼には、あの会社の中で誰よりも深い現場の知識があった。しかし、外部ファームの提言と社内の空気が一つの方向を向いている中で、自分の違和感を言語化する余地が構造的に残されていなかった。合議制の力学がそうさせたのだと思う。彼はそれを不安とすら認識していなかったのかもしれない。

私は以前、トレーディングの世界にいた。そこでは人間の判断をできるだけ排除することが正しいとされていた。損切りのルールは機械的に決める。感情が入ると判断が歪むからだ。これは間違っていない。人間は損失を確定させるのが本能的に苦手で、「もう少し待てば戻るかもしれない」という希望にしがみつく。だからルールで縛る。

ただ、ビジネスの意思決定はトレーディングとは根本的に違う。

ロジカルな判断は、予測可能な結果しか生まない。当たり前のことのように聞こえるが、よく考えると深い話だ。分析に基づいて合理的に判断すれば、分析が予測した範囲の結果が得られる。それ以上のものは出てこない。

一方で、人と人の間に信頼が生まれ、異なる視点が本当の意味で交わった時、論理的に予測できる範囲を超えた価値が生まれることがある。私はこれを何度も目にしてきた。それは食い違いを排除した時ではなく、食い違いの中に留まった時に起きる。

ここが難しいところなのだが、「食い違いの中に留まる」というのは、実際にやると非常に居心地が悪い。分析はAと言っている。自分の中ではBが引っかかっている。この状態を解消せずに抱えたまま考え続けるのは、相当なエネルギーがいる。(私自身、トレーディング時代の癖で、早く白黒つけたくなる衝動と何度も闘ってきた。)多くの人は早くどちらかに決めたくなる。


では、判断について「よく考える」とは、具体的に何をすることなのか。

判断は多くの場合、二者択一ではない。AかBかという問いの立て方自体が、すでに思考を狭めている。実際の経営判断では、異なる立場、異なるビジョン、異なるやり方が共存する道を見つけることが本当の仕事であることが多い。(これは「妥協」とは違う。妥協は全員が少しずつ不満を抱える。共存は、それぞれの核心を活かしたまま全体を設計し直すことだ。)

良い判断をする人を見ていて気づくのは、「良い結果」の定義が広いということだ。結果をあまりに狭く定義すると――たとえば「この四半期の売上が何パーセント上がること」だけを良い結果とすると――良い判断ができる確率は極端に下がる。視野が狭いからだ。

これはあまり語られないことだが、ある瞬間の良い判断は、しばしばずっと前の別の判断の結果だったりする。以前、ある企業のERP導入プロジェクトに関わった時に感じたのだが、その企業が導入で見事な判断ができたのは、その瞬間に優れた分析をしたからではなかった。何年も前からデータの整備や組織の透明性について地道な判断を積み重ねてきた――その蓄積があったからこそ、いざという時に自分たちの判断を信じることができた。判断の質は、その瞬間だけでは測れないのかもしれない。

ただ、ここで正直に認めなければならないことがある。

これらのことを一人でやるのは、ほぼ無理だ。

自分の中にある食い違いを、自分一人で正確に見ることは構造的に難しい。なぜなら、その食い違いの片方は自分の無意識にあるからだ。壁打ちの相手が必要なのは、相手が自分より賢いからではない。相手が「自分ではない」からだ。

剣道で構えをほんの少しだけ正されて、急に打ち込みが鋭くなる――あの感覚に似ている。自分では見えない微調整を、外からの視点が可能にする。ただし、それは教わるという体験ではない。自分の中にすでにあったものが、ようやく噛み合う体験だ。

その過程は、正直に言えば、心地の良いものではない。自分が避けていた食い違いに向き合わされるのだから。しかし、その不快さを通り抜けた後に残るのは、借り物ではない確信だ。


冒頭の経営者の話に戻る。

彼は結局、コンサルティングファームの提言をそのまま採用しなかった。かといって全面的に覆したわけでもない。彼がやったのは、自分の中にあった違和感を言語化し、それを提言の枠組みに組み込み直すことだった。最終的な判断は、外から見れば当初の提言と大きく変わらないように見えたかもしれない。しかし、彼自身の理解と納得の深さはまったく別物だった。

私は「正しい判断」という言葉をなるべく使わないようにしている。代わりに「良い判断」と言う。正しいか間違いかは後からしかわからない。しかし、良い判断かどうかは、その瞬間にわかるのではないだろうか。自分の中の食い違いに気づき、それを無視せず、分析も直感もどちらも捨てずに抱えたまま考え抜いた末の判断――それが「良い判断」なのだと思う。

ただ、それを一人でやり切れる人を、私はまだ見たことがない。

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