机の上に並んでいる案件を眺めていて、ふと手が止まる瞬間がある。どれも「決定が必要です」と顔をしてやってきているのだけれど、よく見ると、本当に決定を求めているものは、案外少ない。実際には、決定の周りにある圧力のほうが、その案件の正体だったりする。
机に届く案件のうち、相当な割合が本当の意味では自分のものではないこと、または、いま決めるべきものではないことを、薄々感じている経営者は多いのではないだろうか。決定の形をしているけれど、決定ではない。あるいは、誰かの決定なのだけれど、いつのまにかこちらに渡ってきている。そういう案件が机の上には混ざっていて、その違和感を言葉にする機会は、なかなか無い。
実は私自身も、日々の生活の中でこの感覚と向き合っている。子供達の学校を変えるかどうか、という話があった。今の学校に対する不満は確かにあった。ただ、今の学校が嫌だから変える、というやり方を一度始めてしまうと、次に何か気に入らないことが出てくるたびに、また同じ判断を繰り返すことになる。それは私たち夫婦が望んでいる親としての姿ではなかった。だから、すぐには決めなかった。
代わりに、決定そのものとは少しずれた問いを立てた。「子供達に責任ある大人として顔を向け、決定について全てを説明できる親であるとは、私たちにとって具体的に何を意味するのか」。この問いに、それなりに納得のいく答えが揃うまで、決定を保留した。新学期という現実の締切があったので、無限に待てたわけではない。ただ、その締切ギリギリまで、急がなかった。
保留している間、今の学校への不満は積み重なっていく。「あの時すぐ動いておけば」という気持ちが時々顔を出す。正直に言えば、何度かそれに屈しそうになった。ただ、私たちが急ぎたかったのは決定そのものではなく、決定の周りにある不快感を消したい気持ちのほうだった。そこに気付けるかどうかが、保留の質を決めていたように思う。
急かしているのは、決定ではない
ここで一度、言葉を整理しておきたい。私が「アベイアンス」と呼んでいるのは、決めずに持つ、という意思のある選択のことだ。日本語で言えば「保留」に近いのだけれど、保留と訳しきると意味が痩せてしまう。アベイアンスは、決定を据え置く判断それ自体が一つの決定であり、放置とは性質が違うからだ。
この区別は、ややこしいけれど大事だと思う。アベイアンスには、外見が似ていて中身が違う隣人が、いくつかいるからだ。
まず混同されやすいのが、優柔不断。決められない状態、と言ってもいい。私自身、業務上の判断には比較的アベイアンスを使えるのだが、自分自身の個人的な判断については優柔不断に陥ることがしばしばある。自分のことについては情報が多すぎて、過去の失敗の記憶も含めて、判断にバイアスがかかる。そういうときは、パートナーや友人に相談したり、新しい角度を与えてくれる何かを待ったりする。優柔不断は意図的なものではない。アベイアンスのとても長い、意図せざる形だと言ってもいいかもしれない(だから、優柔不断を一律に悪と決めつける話には、私はあまり乗れない)。
東京から離れて住む場所を決めようとしていた時のことを思い出す。長野の様々な土地を回り、考えられる要素は一通り考え尽くした。それでも決められない時期があった。あれは正直、アベイアンスというより、優柔不断に近かった。検討すべき要素は出尽くしていて、ただ、何か想定していなかった情報や、人や、視点に出会うのを待つしかなかった。実際、ある時点で見落としていた要素が一つ立ち上がってきて、それが選択肢を絞ってくれた。あの時の私は、決めようと意志を持って待っていたわけではない。待つしかなかった、というのが正確だ。
もう少し見分けにくいのは、優先順位を下げることのほうだ。こちらも決定を後ろに置く動作ではあるのだが、アベイアンスとは性質が違う。優先順位を下げた案件は、静かになる。論理的に「今これは大事ではない」と判断して、頭の中の手前から下げる。ところが、アベイアンスに置いた案件は、机の上で「うるさい」ままだ。あえてうるさいまま、答えに崩れ落ちないように、こちらが意志を持って手で押さえている。外から見ると区別がつきにくいが、内側からはまったく違う作業をしている。
(正直に言えば、私は性格的にアベイアンスより「早く片付けたい」タイプの人間だ。空港にも駅にも早く着く。書類は締切前に出す。締切に近づくと、変な判断が入り込むのを知っているからだ。だから私にとってアベイアンスは、いわば余裕の使い方であり、贅沢な選択でもある。ここを正直に置いておかないと、この話は嘘になる)
「決断が早い人はかっこいい」というフィクション
ここまで来て、ようやく一つの素朴な問いに戻れる。なぜ我々は、これほどまでに「早く決めなければ」という感覚に縛られているのか。
理由はいくつか折り重なっているのだけれど、その中で大きいのは、文化的に植え付けられた「決断力のある経営者」という像のように思う。戦争映画の主人公が一瞬で決断を下し、戦況を変える場面。あるいは新聞記事の見出しに踊る「○○氏の素早い判断が会社を救った」という言葉。こうした像が、知らず知らずのうちに「決断とはスピードである」という等式を、我々の中に作っている。
ところが、それらの「素早く見える決断」を分解してみると、その早さは長い時間をかけて作られたものなのだとわかる。年単位で積み上げてきた訓練、何度も繰り返してきた観察、決定者の周囲にいる支援者の層。そして何より、その決定の前段にあった無数の小さな決定。それらが全部揃っているからこそ、最後の一手が「素早く見える」。素早かったのではなく、素早く見えるだけのことだ。それを我々は、フィクションのほうに合わせて自分を測ってしまうことがあるのではないだろうか。
ここで気をつけたいのは、すべての決定をゆっくり持てばいいわけではない、という点だ。アベイアンスは万能ではないし、すべての案件に適用するものでもない。重要なのは「どの決定にアベイアンスを使う価値があるか」を見分ける感覚で、これを私は「トリアージの感覚」と呼んでいる。すぐに片付けていい案件、すぐに片付けるべき案件、時間を投じて深く向き合うべき案件、それぞれを峻別する。アベイアンスは、最後の、時間を投じる価値のある案件のための、経営者の裁量道具なのだと思う。
机の上に届いただけでは、まだ「あなたの決定」ではない
少し別の角度の話をしたい。私はある時期、人口減少が深刻な地方都市の戦略アドバイザーを務めていた。市の存続そのものが揺らいでいる状況の中、エリート市職員のチームと一緒に、街の未来を再設計しようとしていた。
そのチームの中に、メディアの取材も多く、外部から人や資金を呼び込むのが上手い、目立つメンバーが一人いた。話術も巧みで、街の中ではほとんどスターのような扱いだった。ただ、彼の発信するアイデアの大半が、別の場所からの借り物で、しかも本人がその由来や前提を十分に咀嚼していないことが、関わるうちに見えてきた。プロジェクトが進むほど、彼の借り物のアイデアが現場を混乱させ、市民と市職員の間を分断する要因にもなっていった。
ある時点で、私はこのまま彼が中心にいる限り、街にとっての持続可能なプロジェクトには到達できないだろう、と判断した。その判断を、私はチームに伝えた。市の幹部達は、内心では同じことを感じていたが、それを口に出すことができなかった。私が言葉にしたことで、ようやく「気付いていたけれど言えなかったこと」が部屋の真ん中に置かれた。
ここからが、本題だ。私たちアドバイザーは、彼を外すという決定を、自分たちで下さなかった。自分たちの立場としてその決定に踏み込むこともできたかもしれない。踏み込めば早かっただろう。ただ、もしそうしたら、街にとってその決定は「外から来た助言者が決めたこと」になってしまう。街の未来を背負う決定は、街の人間が下さなければ続かない。私たちが急ぐ理由は無かったし、急いで形だけ整えても、後で必ず崩れる。
だから、私たちは決定をあえて宙吊りにした。市幹部達からは見立てを繰り返し問われたが、自分たちの立場は明確にしつつ、彼らの決定そのものには踏み込まなかった。最終的に、彼は外部から強制されたわけではない。自分の意思でプロジェクトから退いた。強制せず、本人の意思で退いてもらう、というのは日本における一つの結着の形でもある(その機序が成立するためにも、こちらが急がない時間が必要だった)。あの「彼を外そう」という決定は、届いた瞬間、私たちのものに見えた。けれども、よく見ると、それは街の人達のものだった。
届いた瞬間から自分のもの、というのは、思い込みなのではないだろうか。届いた案件が誰のものかを見極める作業も、アベイアンスが運んできてくれる。決定を急がないことで、その案件の本当の持ち主が、ゆっくり浮かび上がってくる。
冒頭の話に戻ろう。経営者は決めることを仕事にしている。その事実は変わらない。ただ、机の上に並んでいる案件の中には、いま決めるべきものもあれば、決めるべきだけれども急ぐ必要のないものもあり、よく見ると本当はこちらが決めるべきではないものまで混ざっている。その違いを見分ける言葉を、これまで我々はあまり持っていなかったように思う。アベイアンスは、その違いを見るための、ただの間(ま)なのかもしれない。