経営の意思決定について相談を受ける中で、ほぼ必ず聞かれることがある。「で、どちらが正しい選択なのでしょうか?」と。この問いを何度も聞いてきて、最近は少し違う景色が見えるようになった。正しい決断というものは、存在しない。あるのは、ただ「決断」だけだ。正しいかどうかは、誰の立場で見るかによって変わるし、時代が変われば評価も変わる。絶対的な正解などどこにもないのだと思う。
では、正しさが主観的なものだとしたら、良い決断と悪い決断の違いはどこにあるのか。私は、その境界線は一つの問いで引ける気がしている。「その決断を、自分の言葉で語れるか」ということだ。
決断を「引き受ける」とはどういうことか
決断を引き受けるとは、「決めた」ということではない。なぜその道を選んだのかを説明でき、異論が出た時にも自分の言葉で応えられ、その結果に対して逃げない、ということだと思う。稟議書に判を押すことでも、会議で挙手をすることでもない。もっと個人的な、腹の据わった行為である。
とくに組織の意思決定においては、その決断によって影響を受ける人が多ければ多いほど、より多くの人に「なぜそうしたのか」を理解してもらう必要がある。全員が賛成する必要はない。ただ、決断した理由を誰にも説明できないのであれば、その決断は人を動かすことができない。どれだけデータが揃っていても、誰も自分の言葉で語れない決断は、組織の中では動力を持たないのである。
ある学校法人の理事会で起きたこと
少し前、ある私立学校の経営に関わる相談を受けたことがある。日本の多くの私立学校が直面している話だが、少子化の波は確実にその学校にも及んでいた。生徒数の減少は数年前からデータとして明確に現れていて、このまま何も手を打たなければ、数年後には経営が立ち行かなくなることは、理事の誰もが理解していた。
調査とシミュレーションを重ね、選択肢は概ね二つに絞られていた。どちらも痛みを伴う選択ではあったが、データに基づいた根拠はしっかりしていたし、どちらを選んでも学校の存続に向けた筋の通った道筋は描けていた。分析としては、十分に「決められる」状態だったと思う。
ところが、理事会はどちらの選択肢も採らなかった。
理由は、情報が足りなかったからでも、分析が甘かったからでもない。理事の誰一人として、その決断を「自分のもの」にできなかったからだ。保護者の前に立ち、「私たちはこう考え、こちらの道を選びました」と自分の言葉で語る場面を想像した時、誰もその重さを引き受けられなかった。結果として、理事会は二つの選択肢のどちらにも動かない、という第三の道を選んだことになる。
皮肉なのは、この「動かない」という結果もまた一つの決断であるという点だ。しかも、誰も引き受けていない決断である。意図的に選んだわけでもなく、合意を得たわけでもなく、ただ誰も引き受けられなかったことの残滓として、緩やかな衰退が始まった。誰の名前も入っていない決断ほど、組織にとって危険なものはないのかもしれない。
引き受けられない決断が生まれる構造
この理事会のケースは、決して特殊な話ではない。組織の意思決定が機能不全に陥るパターンは、実に多くの現場で見てきた。
四半期の締め切りや上司からの催促に追われて、十分に考える前に決めてしまう。あるいは、会議室の空気に流されて、反対意見を飲み込んだまま沈黙が同意として処理される。日本の組織では、この「空気による決定」が驚くほど多い。それとは逆に、目の前の問題にとっさに手が動いてしまう衝動もある。前に書いたことがあるが、痒さを我慢できないのと似ている感覚だと思う。
どのパターンでも結果は同じだ。決めた本人が、その決断を後から自分の言葉で語れない。説明を求められた時に、「あの時はそうするしかなかった」としか言えない。それは決断ではなく、ただ流されただけである。
引き受けられる決断に至るには
では、どうすれば「自分の言葉で語れる決断」にたどり着けるのか。私の経験では、それは才能や度胸の問題ではなく、過程の問題である。
信頼できる相手と徹底的に対話すること。データや現場の声を丁寧に調べ尽くすこと。そして、選ばなかった方の道を何度もシミュレーションすること。私自身、この「両方の道を何度も頭の中で歩いてみる」という作業をかなり大切にしている。選んだ道だけでなく、選ばなかった道の中にも十分に身を置いてみて初めて、「それでもこちらを選ぶ」と言える状態になる。
目指しているのは確信ではない。確信など、複雑な意思決定においてはほぼ手に入らない。目指しているのは、その決断について、どの角度から問われても自分の言葉で応えられる状態だ。引き受けられる決断とは、見つけるものではなく、そういった過程を経て作り上げるものだと考えている。
冒頭の学校法人の話に戻る。あの理事会は、今も緩やかに同じ方向へ進んでいる。正しくない決断をしたからではない。誰も引き受けられる決断をしなかったからだ。
組織にとって最も危険なのは、間違った決断ではないのかもしれない。著者のいない決断、なのではないだろうか。