部屋にいるのは自分一人で、机の上にあるのも自分が運んできた案件だけ、なのにどこかから「早く決めろ」と聞こえてくる。誰かが急かしているわけでもない。それなのに、胸の奥に、低い周波数のアドレナリンが鳴っている。経営者にとって馴染みのある音だと思う。
外から急かされている時は、急かしてくる相手がいる。だから話が早い。ところが、正直、内側で鳴っている時のほうが厄介なのだと思う。急かしているのは自分の中の何かなのに、その「何か」の正体を、急かされている自分自身は見ることができない。
ここで気をつけたいのが、この内側の音を「自分の弱さ」や「性格の問題」として処理してしまわないことだ。アドレナリンめいた持続的な圧迫感は、決定者個人の脆さというよりも、決定の周りに組まれた急ぎの構造が、身体の内側に染み込んでこちらに残響として返ってきている、というほうが近い。性格を変えるのではない。圧力の出処を見るための信号として、その音を扱いたい。
そのために必要なのが、決定を据え置く、という意志のある間(ま)。私はこれをアベイアンスと呼んでいる。決断そのものを止めるという話ではない。決断の周りに鳴っている音のほうを、一旦止めて聞く。すると、その音が何を伝えていたのかが、ようやくこちらに開いてくる。
論理は、突かれて初めて素性を見せる
「いま、自分は論理で決めようとしているのか、感情で決めようとしているのか」。これを自分の中で見分けるための、わかりやすい目印はいくつもある。決定について語っている自分の口から、感情そのものについての言葉が出てきていないか。あるいは情報集めをデータから始めたのか、何となく感じたものから始めたのか。これらは比較的わかりやすい目印だ。
ただ、本当に見分けにくい瞬間に役立つのは、こういう表層の目印ではないように思う。最も信頼できるのは、自分の論理を、内側からもう一段、突いてみる、という動作だ(経営者相手にこの動作を仕事として行う時、私はそれを半ば冗談で “interrogation” と呼ぶことがあるが、日本語の「尋問」ほど物々しいものではない)。
自分が出そうとしている結論の論理を、一段、自分自身に問い直してみる。「なぜそう言える?」「他に説明できる仮説はないか?」と。落ち着いた論理は、突かれても形を保つ。一段二段問い直されても、こちらに同じ形で戻ってくる。一方、感情に乗った論理は、突かれた瞬間に綻び始め、しばしば本人自身が驚くほど早く崩れる。崩れの速さと、崩れ方の質。これが、内側の状態を映す鏡になる。
アベイアンスは、この自問の時間を作ってくれる、というだけの動作なのだと思う。決断を急ぐ流れの中では、自分の論理を自分で問い直す余白が消えていく。間を取る、それだけで論理の素性がこちらに見えてくる。
ここで一つ、誤解されやすい点を置いておきたい。感情を取り除くべきだ、という話ではないのだ。完全に論理だけの決定も、完全に感情だけの決定も、現実にはほぼ存在しないように思える。あるのは比率の違いと、その比率を本人がどう自覚しているか、の差だ。
そして、決定後にこちらの中に「後悔」と呼ばれる感覚が立ち上がってくる時、その後悔にも二種類ある。「あの時、自分の感じていたものに従っておけば良かった」と「あの時、もっと数字を見ておけば良かった」。論理だけで押し切ると前者の後悔が、感情だけで押し切ると後者の後悔が、後からやってくる。両方を満たさないと、人は自分の決定と長く付き合えない。だから、両方を別々のチャネルで通すための間が必要なのだろう。
(正直に言えば、私自身も忙しい時期には「この決定を消したい」気持ちが先に立ってしまうことがある。その時の自分は、決定の質よりも、決定が抱えている重さを早く下ろしたい、と感じている。同じ急ぎの構造が、相談を受ける立場の自分の中にも入ってきている、ということなのだろう。だから「アベイアンスは大事だ」と言える時の自分は、その音が一度静まった後の自分でしかない)
それから、組織の中でしばしば見かけるのが、論理と感情の複雑な混ざり物に集団が疲れた瞬間に、誰かが「採決を取りましょう」と切り出す場面だ。投票という形式は、公平さの衣を着てやってくる。ところが、その公平さは、本当のところはくたびれの言い換えであることが少なくないように思う。複雑さに耐えきれなくなった集団が、形式的なフェアネスに逃げ込む動作。
私は投票という意思決定の手法を、よほどの場合を除いて、お勧めすることはない。投票したかったらいつでもできる。後日、オンラインでもできる。けれども、その複雑さに集団がもう少し耐えられたなら、投票では決して掬えなかった少数派の声や、決定のニュアンスが、結論に織り込まれていた可能性がある。集団のための間を作るのも、アベイアンスの仕事だ。
「自分の机に来た」と「自分の決定である」は別の話
ここまでが、「どちらのモードで決めようとしているか」を見るための話。ここから先は、もう一段深い問いに入っていきたい。「この決定は、そもそも自分のものなのだろうか」。
決定が本当に自分のものでない時、最初に綻ぶのは、やはり論理だ。誰かのために、誰かによって組み立てられた論理を、こちらは「自分の論理」として運ばされている。だから問い直しに弱い。自分で組み立てたわけではないから、突かれた時に自分の言葉で答え直すことが、できない。
組織の中では、決定が経営者のほうへ自然に流れ込む構造がある。職位の高い人間が決めるべきだ、という慣性、決裁ラインの設計、そして何より、誰も負いたくないリスクが上に集まっていく重力。これらはどれも、組織を回すために存在しているもので、それ自体が間違っているわけではない。ただ、その流れが、本来その経営者が担うべきではない決定までこちらに運んできていることがある。
ここで一つ気をつけたいのは、「これは自分のものではない気がする」と感じた時に、それを「決定からの逃走」と即座に同義にしないことだ。線は意外と細い(この線、私自身もしばしば見失う)。
経営者にしか下せない決定を、自分のものではない気がする、と理由づけて手放すのは、それは責任の放棄なのだろう。ところが、誰か他の人間が背負うべきだった決定が、組織の慣性によってこちらに渡されてしまっていて、そのことを自問の末に見抜いて手放すのは、放棄ではなく判断だ。判断のほうを放棄と取り違えないでいたい。この線は、ゆっくり引かないと、自分自身でもどちらかわからなくなる時がある。ただし、手放すだけでは組織は揺れる。なぜ自分が担うべきではないと判断したか、誰がより適切に担えるか、を言葉にして渡す必要がある。手放しと放置はまったく違う動作で、前者は次の所有者への移譲を伴う。
線を引くために必要なのが、ここでもアベイアンスの間(ま)だ。決定の論理を一度自分の中で突いてみて、その論理が自分の言葉で組み直せるか。組み直せるなら、その決定は形式上だけでなく内容としてもこちらのものだ。組み直せないなら、なぜ組み直せないのか。「そもそも自分はこの決定を組み立てる側にいなかったのではないか」という問いを、自分に開いていい。
実際、職務経歴書を眺めていて気付くことがある。「重要な決定を、より適任の同僚に渡しました」と自慢する欄が、ほとんど用意されていない、ということだ。書かれているのは、自分が下した大きな決定の数と規模の話だ。これは経営者個人の自意識の問題というより、人材市場全体がそういう設計になっている、というほうが近いのだろう。経営者が決定を手元に集めたがるのは、その人が傲慢だからではない。その動作が長く評価されてきたから、合理的にその動作を選び続けている、という側面が大きい(白状すれば、私自身も過去にその設計の中で履歴書を書いてきた一人だ)。
ただ、経営者にしかできない決定だけを経営者が抱える、というのが本来の姿だと思う。職位の重さや組織の規模が「だから経営者が決める」と要求するわけでもないのだ。救急医や救助の現場では、若いスタッフが連続して生死に関わる判断を下している。テック企業の一部では、経験の浅いメンバーに大きな決定を任せる文化がある。これらを「経営の例外」として遠ざけるよりも、構造的選択肢として認識した方がいいのではないだろうか。「経営者が決めるとは限らない」という構造を、現実は静かに示してきている。
問わずに、問う
決定の所有が、本当は自分ではない誰かのものだったことを確かめるための方法は、いくつかあるけれど、最も静かで、最も効くのは、決定を据え置く、ということだ。私はこれを、自分の中で「問わずに、問う」と呼んでいる。質問せずに、決定を宙に置いておく。それだけで、その決定を待っている人達が、勝手に何かを始める。
長く据え置かれた決定の周りでは、その決定を心から待っている人ほど、落ち着かなくなる。「どうなりましたか」と聞いてくる。聞いてくる人と、聞いてこない人の差が、所有の所在を浮かび上がらせる。聞いてこない人にとって、その決定は、結局は他人事だったということだ。
先述の地方都市の話に少し戻りたい。エリート市職員のチームの中で、目立つメンバーを巡る判断があった時、市の幹部達は彼に判断を委ねる癖がついていた。本人達はそのことを自覚していなかった。彼のキャラクターが強かったので、知らず知らずのうちに、市としての判断が彼の発言に吸い取られていた。
私たちがしたのは、決定を据え置く、それだけのことだった。「あなた方はどう考えますか」と私たちは問わなかった。問わずに、ただ判断を保留した。すると、市の幹部達が、徐々に自分達で考え始めた。実際に街の現場を歩き、市民との会話を重ね、プロジェクトを軌道に乗せてきたのは、目立つ彼ではなく、彼ら自身だったのだ、ということを、彼らがゆっくり思い出していった。決定は、もともと彼らのものだった。私たちがしたのは、その所有を彼らの手の中に戻すための、間を作っただけのことだ。
決定が経営者に集まりすぎている、と感じた時に、いきなり手放すと放棄になりかねない。ところが、間を取って据え置くと、本当の所有者がゆっくり浮かび上がってくる。その所有者は、組織の中の別の誰かであることもあれば、自分自身が改めてその決定を自分のものとして再構築する場合もある。どちらに転んでも、間を取った後の決定のほうが、決定として強い。
机の上で鳴っている音を、すぐに静めようとしなくていいのかもしれない。鳴らしておく時間が、こちらに「これは何の音だったのか」を教えてくれる。