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意思決定 · シリーズ

決断を所有する(全2回・第1回):自分のものだと言いきれる決断

ある地方金融機関の役員会に同席したときのことだ。長く議論されてきた事業からの撤退を、最終的に決裁する場だった。資料には付箋がびっしりと貼られ、何度も差し戻された跡が残っていた。決裁が下りた瞬間、その役員はほっとしたような、それでいてどこか誇らしげな表情をしていた。さんざん悩み、反対意見も浴び、それでも最後は自分が決めた。あの顔を、私は今でも覚えている。

経営に関わる人なら、あの感覚に覚えがあるのではないだろうか。さんざん迷ったあげく、最後の最後で「行く」か「行かない」かを自分で引き受けた、あのわずかな差。誰かに押しつけられたのでもなく、空気に流されたのでもなく、これは紛れもなく自分の決断だ、と言いきれる瞬間。仕事をしていて得られるもののなかで、あれほど純度の高い手応えはそう多くない。

ただ、同じくらい確かなことがもう一つある。その「自分のものだ」という感覚が、本当に正しいのかどうかは、たいていの場合わからない、ということだ。あれほど自分で決めたつもりでいて、その実、何に背中を押されていたのかを、私たちはあまり見ていない。手応えは本物だ。しかし、それが本当に自分一人の判断だったかという確証は、どこにもない。

私自身のことを話すと、2011年にイギリスを離れて日本に移ったのは、今でも自分で決めたことだと思っている。ただ、正直に言えば、「自分一人で決めた。ただ、本当にぎりぎりのところで」という感覚に近い。誰かに強く勧められたわけではない。それでも、あのとき自分を動かしていたものをすべて見えていたかと問われると、とてもそうは言えない。当時の自分が気づいていなかった何かに、確かに押されていた。決断そのものは自分のものだと思える。だが、その純度を100%だと言いきる自信はない。

誤解のないように言っておきたいのだが、何かに影響されること自体は、悪いことではない。むしろ、人の判断はほとんどつねに何かに影響されている。厄介なのは、影響されていること、そのものではない。自分が何に影響されているのかを、見ていないことのほうだ。


「所有する」という言葉が背負いすぎているもの

決断を「自分のものにする」とは、どういうことなのか。この「所有する」という言葉が、実はかなり多くのものを背負わされているように思う。

私たちはしばしば、決断を所有することと、その結果を自分の手柄にすることを、無意識に重ねてしまう。だが、この二つは違う。文章なら、書いた本人がその一字一句を所有できる。最後の句点まで自分で打てる。決断はそうはいかない。決めたあとに何が起きるかを、私たちは制御できないからだ。未来は予測できない。だからこそ、重い決断は頭痛の種になる。結果まで含めて所有しようとした瞬間、それはもう所有とは呼べない。賭けに近いものになる。

では、何なら所有できるのか。所有できるのは、結果ではなく、決める瞬間に自分が何を見ていたか、だ。自分を「行く」方向と「行かない」方向へ、それぞれ何が引っぱっているのかを、いま、わかっているか。もしこの決断を実行したら、誰が不利益を被るのか。自分自身も含めて、それが見えているか。そして、その代償を引き受けて生きていけるか。所有できるのは、この現在進行形の「見え方」のほうなのだと思う。

ここで、もう一つよく混同されるものがある。後から振り返って下す判定だ。決断の良し悪しは、あとになればいくらでも語れる。うまくいけば「あれは正しい決断だった」と理由をつけられるし、こじれれば「やはりあれは間違いだった」と悔やむこともできる。ただ、この後づけの物語は、所有とは別のものだ。そもそも、何をもって正しいとするかの基準は人によって違う(同じ結果を見て、ある人は成功と呼び、別の人は失敗と呼ぶ)。そのうえ、正しかったかどうかは後からしかわからない。だとすれば、後から下す判定に、決断の所有を預けるわけにはいかない。所有は、決める前に、結果を見越したうえで、すでに引き受けられているものなのだと思う。

その意味で、所有とは結果を作り出すことではない。いま自分が何を見通しているかを、現在において引き受けることだ。そして、それが本物かどうかを試す方法が一つだけある。あとになって、こう言えるかどうかだ。「これは私が決めたことだ。そのせいで、あなたに不利益が及んだ。申し訳ない。私の判断だった。どうすれば、少しでも償えるだろうか」。これをきれいに言えるのは、その代償が来ることを、決める前に見えていた人だけだ。見えていなかった人がこれを言うと、ただの謝罪か、言い訳になってしまう。覚悟をもって引き受けた人だけが、後から逃げずにこの言葉を口にできる。

念のため言い添えておくと、これは感情の話ではない。誰かに頭を下げて気持ちよくなるための話ではない。決める前にどこまで見えていたか、その一点を測るための、いわば自分への問いである。


影響の確率、という考え方

では、その「見え方」は、どうすれば手に入るのか。ここで私が頼りにしているのは、影響を確率で捉える、という地味な習慣だ。

確率で捉えるというのは、ゼロでも100%でもない。自分はつねに何かに影響されている。そう前提を置く。とりわけ、自分でも認めたくないようなものに(過去の成功体験、誰かに良く思われたいという気持ち、あるいは単なる面倒くささ)。決断が自然で、すんなり「これしかない」と思えるときほど、私はかえって一度立ち止まる。気づいていない影響、あるいは無意識に押し込めている影響が、そこに隠れていることが多いからだ。

そのうえで、見えている影響については、丁寧に確かめる。これはあの人の受け売りではないか。この方向に傾いているのは、過去に似た判断を何度もしてきたからではないか。そうやって一つずつ見直し、決断のなかに織り込んでいく。そして、どうしても見えない残りについては、見えないものとして受け入れる。確率で捉えるというのは、つまるところ、この「見えない残り」の存在を最初から認めておく、ということでもある。

システム思考に、境界(バウンダリー)という考え方がある。どこまでを系の内側として考え、どこから外側とみなすか、その線引きのことだ。決断における影響も、これに近いように思う。どこまでを自分の手で確かめ、どこから先は開いて誰かの目を借りるか。その境界は、固定されたものではない。広げることも、狭めることもできる。重い決断のときは境界を広げ、ふだんは見ない遠いところまで一度視野に入れてみる。逆に、些細な判断にまで毎回これをやっていたら、身が持たない。だから、どこに線を引くかを、その都度こちらが選ぶ。

正直に言えば、私も昔はこの境界をうまく引けなかった。若い頃は、できれば自分一人で決めたいと思いながら、内心ではアドバイスを欲しがっていた。今は、自分の論理と勘である程度は決められるようになった。ただ、決められるようになったぶん、自分の経験そのものが見える範囲を狭めているのではないか、という別の不安がついて回るようになった。何度も同じ判断をしてきたからこそ、ある選択肢を、検討する前から無意識に消してしまう。経験は、自信の源であると同時に、その自信が見落としを生む厄介な代物でもある。


それでも、すべては知りえない

ここまで読んで、当然の反論が浮かんでいるはずだ。そんなことを言っても、自分への影響をすべて知ることなど、できるわけがない、と。その通りだと思う。だから、ここで線を引いておきたい。

自分を動かすものをすべて知ろうとすること、それ自体が、実はあまり健全ではない。きりがないし、不可能だし、何より、いつまでも決められなくなる。決断はどこかで下さなければならない。それに、影響というのは、避けるべきものばかりでもない。良き師の直感、長年かけて培った経験、似た局面を何度もくぐってきた相談相手の助言。こうしたものに影響されるのは、むしろありがたいことだ。私自身、ときには意図的に影響されにいくことさえある。信頼できる人に話を聞きに行く、本を読む、助言を求める(もっとも、人に助言を求めるのは、私にとってかなり稀なことではあるのだが)。影響を入り口で全部しめ出してしまったら、決断はかえって貧しくなる。

だから、ここで言いたいのは「影響されるな」ということではない。線はもっと別のところにある。見えない残りについては、受け入れる。これはもう、確率の話として最初から織り込んだ。ただ、手の届くところにありながら、確かめようとしなかった影響については、自分が責任を負う。この二つを、私は分けて考えている。

そして、私が消そうとしているのは、後者のほうだ。見ようと思えば見えたのに、見なかった。確かめようと思えば確かめられたのに、確かめなかった。その怠りこそが、極端な場合には、無責任とか、向こう見ずと呼ばれるものに変わっていくのではないだろうか。同じ「外の視点を取り入れる」という行為が、見えているときには健全で、見えていないときには危うい。影響そのものに善悪があるわけではない。分かれ目は、それを見ているかどうかにあるように思う。

ところで、近頃はこの「見えない影響」に、新しい顔ぶれが加わりつつある。判断を助けてくれる便利な道具(いわゆるAIもその一つだ)が、同時に、新たな見えにくいふるい分けにもなりうる。ただ、これはこれで一つの大きな主題なので、稿を改めて書きたい。

最後に、あの「自分一人で決めた。ただ、本当にぎりぎりのところで」という感覚に戻りたい。私は長いあいだ、あの「ぎりぎり」を、自分の弱さのしるしのように感じていた。もっと堂々と、一人で決めたと言えればいいのに、と。だが今は、少し違うふうに思っている。あの「ぎりぎり」こそが、むしろ誠実さのしるしだったのではないか、と。自分のものだと言いきれる決断とは、影響が一つもなかった決断のことではない。自分を動かしていたもののうち、肝心なものには名前をつけられて、残りは見えないものとして受け入れた、そういう決断のことなのだと思う。

そう考えると、最後に一つ、静かな問いが残る。私たちがあれほど悩んで選んでいる、その選択肢そのものは、はたして最初から、本当に自分のものだったのだろうか。

本稿は「決断を所有する」全2回の第1回です。第2回 見えていなかった選択肢 では、見えている影響から、机に並ぶより前に上流で済んでしまう「見えない剪定」へと話を進めます。

要点

01

決断を所有するとは、結果を手柄にすることではない。決める瞬間に何が自分を引っぱっているかを見ていることだ。所有は後から下す判定のなかにではなく、現在進行形の見通しのなかにある。

02

影響されること自体は問題ではない。手の届くところにありながら確かめなかった影響にこそ、責任が生じる。見えない残りは受け入れ、見えるはずのものから目を逸らさない。その線引きが、覚悟と向こう見ずを分ける。

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