ある企業の役員会に同席したときのことだ。資金調達の議案で、配布された稟議書にはすでに調達額と想定バリュエーションが並んでいた。議論は丁寧だった。誰がどの投資家に当たるか、希薄化をどう抑えるか、次のラウンドまでの資金繰りはどう引くか。皆が真剣に頭を働かせていた。ただ、その場で一度も問われなかった問いがある。そもそも、この会社はなぜ調達するのか。調達という前提そのものは、誰も触らないまま、議論の出発点として静かに固定されていた。
似た光景を、私は欧州のあるソフトウェア企業のデューデリジェンスでも見ている。シリーズAでおよそ二千万ドルを調達しようとしていたファウンダーだった。守秘のため細部は伏せるが、人物像は実在のものだ。打ち合わせはいつもバリュエーションと成長率の話で、バリュエーションを軸にした資金調達以外の道は、ほとんど誰も口にしなかった。数字が成り立つかどうかは、正直それほど気にならなかった。私が引っかかっていたのは別のところだ。彼の「勝ちたい」という衝動が、事業の合理性で説明できる水準より、明らかに高い位置にあった。
その理由は、財務モデルのどこにも書かれていなかった。彼は人生のほとんどを、ある個人競技の格闘技に捧げてきた人だった。チーム競技ではない。一人で立ち、一人で勝ち負けを引き受ける世界だ。そこでは、どれだけ見事な試合運びをしても、勝たなければ残るものは一つしかない。勝つか負けるかでしか自分を測れない、その身についた構えが、「最速で伸ばし、相手をねじ伏せる」以外のすべての道を、選択肢が机に並ぶよりずっと前に、静かに消していた。影響は分析の中にはなかった。彼という人間の中にあった。
おそらく、多くの人に覚えがあるはずだ。私たちは、目の前に並んだ選択肢の中から自分で選んでいると信じている。ただ、本当の意味で「選ぶ」という行為は、その選択肢を目にするより前に、もう済んでしまっていることが多いのではないだろうか。
分析の中になかった影響
このファウンダーの話を、もう少し丁寧にたどってみたい。彼の意思決定が歪んでいたわけではない。むしろ逆だ。彼は与えられた選択肢を、誰よりも冷静に、誰よりも誠実に比較検討していた。バリュエーションを軸にした調達という道を選んだことに、迷いはなかった。その判断を、彼は完全に自分のものとして引き受けていた。
決定的な影響は、彼が選択肢をどう「比べたか」にあったのではない。それより上流、そもそも彼にとってどんな選択肢が「存在し得たか」のところにあった。事業を一定の規模で安定させる道。ゆっくり育てる道。場合によっては、いったん立ち止まる道。それらは比較の俎上にすら載っていなかった。正確には、退けられたのではない。机に並ぶより前に、静かに消えていた。本人にその自覚はほとんどない(これは批判ではない。私自身にも覚えのあることだ)。
そして、ここがこの話のいちばん厄介なところなのだが、彼はその決定を完璧に所有していた。自分の判断だと胸を張って言えた。まさにそれこそが落とし穴だった。所有していたからこそ、誰もそれを疑わなかった。彼自身も含めて。
結末は、静かに考えさせられるものだった。私は当然のことをした。彼が選ぼうとしている道の隣に、ほかの成長戦略をいくつか並べ、それぞれに相応の根拠をつけて比較してみせた。ところが彼は、そのすべてを退けた。しかも、最後まで筋の通った理由は出てこなかった。説明は流暢だったが、説明にはなっていなかったように思う。彼が本当に欲しかったのは、資金を調達できる自分を証明することであり、調達という結果だけが、彼にとって唯一「勝ち」と呼べるものだった。あの数週間で意味があったのは、モデルの精度を確かめることではなかった。目の前に並んだ選択肢を、彼がはっきりと見たうえで、それでも見ないことを選ぶ。その瞬間に立ち会っていたのだと思う。
損なわれているのは、いつも上流だ
この構造は、何も特別な人にだけ起きるものではない。影響というものは、私たちが選択肢を比較検討するその場面ではなく、もっと手前で本当の仕事をしている。候補を絞り込み、短いリストを作る、あの無意識の剪定の段階だ。たいていは、似たような判断を過去に何度も下してきたからこそ、手が勝手に動いて外れ値を落としてしまう。選択肢がきれいに整理されたように見えるころには、いちばん重要な決定、つまり「何が外されたか」は、もう終わっているのかもしれない。
経営の現場では、この剪定をしばしば他人が代わりに行ってくれる。助言役が、稟議書を作った担当者が、どのシナリオをモデル化する価値があるかを決めたアナリストが、選択肢を先に形づくる。経営者は、すでに上流で削られた選択肢の中から、自由に選んでいるつもりになる。
冒頭の資金調達の話に戻ろう。私たちは、創業まもない会社が調達するのと、三十年続く老舗が調達するのを、まったく違う目で見る。その金で何をするか、やろうとしている仕事の中身は同じであってもだ。若い会社が調達すると言えば、当然の前向きな一歩として歓迎される。老舗が同じことを言えば、なぜ今さら、と身構える。この非対称は、ほとんど誰も問わないバイアスだと思う。ファウンダーが調達すると口にした瞬間、本人も含めて全員が、それを自明の次の一手として扱い、問うのをやめてしまう。
私が壁打ちの相手として向き合うとき、自分なりに課している習慣がある。捨てられた選択肢を、机の上から下ろさずに静かに残しておくことだ。事業をたたむという選択肢でさえ、消さずに置いておく(口には出さないことも多い。場の空気が一気に重くなるからだ。それでも、頭の中では正気を保つために残しておく)。そのうえで、そもそもなぜこの会社は金を必要としているのか、追い求めているこの右肩上がりの曲線は、ファウンダー自身が望んでいるものなのか、それとも早い段階で入った投資家が望む成長を、彼が背負わされているだけなのか。そこを問う。正直に言えば、私自身は人に助言を求めることがめったにない人間だ。だからこそ、上流で何が削られたかを問う作業の難しさは、身に染みてわかっているつもりだ。
問いを立て直す権利
もう一歩、奥に入ってみたい。「たたむ」という選択肢が一度も机に載らず、きちんと検討されたうえで退けられないと、私たちはこの事業を続けるべきだということ、そしてなぜ続けるのかを、二度と確かめ直さなくなる。
誤解のないように、本当に手が縛られている状況とは区別したい。「この日までに調達できなければ資金が尽きて会社が止まる」という制約は、見えているし、引き受けられている。それは目に映っている。タイムラインも、数字も、結果も、本人がはっきり見据えたうえでの判断だ。ところが、検討されないまま固定された前提は、目に映らない。見えている制約と、見えていない思い込みは、まるで別物だ。
その一つの土台となる問いを、確信を持って、しかも静かに、一度でも飛ばしてしまうと、その後のすべての判断は、確かめ直していない前提からの延長線になる。調達額をいくらにするか、どの投資家を入れるか、どう希薄化を抑えるか。どれも真剣に考え抜かれているのに、その全部が、一度も再確認していない一点の上に積み上がっている。失うのは一つの決定の所有権ではない。そこから派生していく決定の連なり全体について、問いを立て直す権利のほうを手放してしまうのだ。
正しいか間違っているかの捉え方には個人差があるし、そもそも後になってみなければわからない部分も大きい。だからこそ、せめて問いを立て直す権利だけは、自分の手元に残しておきたい。そう思う。
チェックは、どこに置かれているのか
ここまで読んで、では自分はどうすればいいのか、と感じた方もいるかもしれない。その問いに答える前に、視点を一つ変えてみたい。
この上流の剪定という仕組みは、どこの国でも同じように働いている。変わるのは、誰が影響を受けているか、そしてその影響のチェックがどこに置かれているか、のほうだ。
日本の組織でよく見られる合議のかたち、たとえば根回しで土台をならし、稟議書を回して決裁を取っていくやり方は、一見すると影響の檻がより強固に見える。多くの目が通る分だけ、上流で何かを勝手に削ぎ落とすことが難しくなる、というより、削ぎ落とすにしても、その判断が複数の人間の目に触れ、少なくとも一度は検討の俎上に載る。影響が共有され、吟味される。チェックが組織の中に分散して置かれている、と言ってもいい。代償もある。合議は、判断の正しさよりも、前に進めることを優先しがちだ。皆が乗れる結論に落ち着くと、それ以上は深掘りされにくい。
これに対して、一人の意思決定者にすべてを委ねる西洋型のモデルは、影響のチェックをまるごと一つの頭の中に集約する。決断は速いし、所有もはっきりしている。ただ、まさにそこが、チェックがいちばん飛ばされやすい場所でもある。自分一人の中で完結する作業ほど、見落としは静かに通り過ぎていく。集約された分だけ、その一人がもっとも盲目になりやすい。皮肉なことに、個人の所有を重んじる文化のほうが、影響という点では最も無防備なのではないだろうか。
どちらが優れているという話ではない。合議制も、単独決裁も、それぞれが何かを得るために何かを手放している設計上の選択であって、それ自体が間違っているわけではない。分散させれば、チェックは効くが、速さと切れ味を失う。集約すれば、速さと所有を得るが、チェックの最後の砦がたった一人の規律だけになる。トレードオフがどこにあるかを知っておくこと。それだけでも、見え方はずいぶん変わってくるように思う。
なお、近ごろは、この上流の剪定を担う新しい存在が静かに増えている。判断を助けてくれる道具でありながら、その思考の過程は折りたたまれて見えない。ここでは深入りしないが(それは別の稿に譲る)、誰が、あるいは何が選択肢を削ったのかを問う習慣は、これからますます要るようになるのだと思う。
最後に、あのファウンダーのところへ戻りたい。彼は自分の決定を、最後まで完全に所有していた。その所有は本物だった。ただ、所有していたのは決定であって、選択肢のほうではなかった。選択肢は、彼が机に着くよりずっと前に、誰かに、あるいは彼自身の半生に、選ばれてしまっていた。私たちがいちばん誇らしく「自分の決断だ」と言えるその一つが、実は、選ぶ前から選び終えられていたものなのかもしれない。
本稿は「決断を所有する」全2回の第2回です。第1回 自分のものだと言いきれる決断 では、所有とは結果の手柄ではなく、現在進行形の見通しを引き受けることだ、という話をしています。