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意思決定

「お見事」は誰の言葉か

数年前、私はw00rkという会社を仲間と立ち上げた。オフィスでイノベーションが起きやすくなるように、働く場そのものを拡張する装置をつくる、小さな研究会社である。私はそのリードリサーチャーであり、同時にCEOでもあった。プロトタイプをつくり始めてしばらくした頃、チームはひとつの問いをめぐって割れた。自分たちがつくろうとしている装置の「成功」を、いったいどう定義するのか、という問いだ。

一方の側は、装置を使う人のイノベーション度が上がっていく様子を、一枚のグラフで見せたい、と考えていた。おそらく前例のないもので、市場に最初に出すという栄誉もついてくる。魅力的な絵であることは間違いない。もう一方の側は、そんな幻のようなイノベーションを追うべきではない、と譲らなかった。イノベーションなどというものは、そもそもまともに測れるものではない、というのである。おもしろいのは、測るのが恐ろしく難しい、という一点については、実は全員の意見が一致していたことだ。割れていたのは、その難しさを認めた上で、ではどうするのか、という一点だけだった。

経営に関わったことのある人なら、こういう場面に覚えがあるのではないだろうか。次に下す決断が、組織をきれいに二つに割ることが、もう見えている。しかも厄介なのは、どちらの側にもそれぞれの言い分があって、どちらも間違ってはいない、というところだ。


測る対象を入れ替える

CEOとしての私の仕事は、この議論のどこかで決着をつけることだった。いつまでも続けるわけにはいかない。ただ、決着のつけ方として私が選んだのは、どちらかの側に軍配を上げることでも、間を取って足して二で割ることでも、全員が納得するまで待つことでもなかった。そのどれもが、片方の信念を削るか、議論そのものを先送りにするだけのように思えたからだ。私がしたのは、測る対象そのものを、静かに入れ替えることだった。

イノベーションが起きているかどうかを正面から測るのをやめて、その周りにある「反イノベーション的なふるまい」の方に目を向け、それがどれだけ減っていくかを測ることにしたのである。頭にあったのは、クルト・レヴィン(Kurt Lewin)の「力の場分析」だった。あらゆるものは、何かに乱されるまでは均衡を保っている、という見方である。だとすれば、イノベーションを推し進める力が働いているところには、たいてい、それを押し戻そうとする力も働いている。私たちは経験的にも、科学的にも、何が人のイノベーションを妨げるふるまいなのかを、ある程度わかっていた。ならば、その妨げる力の方を捉えて、少しずつ減らしていけばいい。抵抗が減れば、イノベーションは、おのずと起こりやすくなるはずだ。

交渉術の古典に、人の立場ではなく、その奥にある利害の方に目を向けよ、という有名な教えがある。フィッシャーとユーリー(Fisher & Ury)の議論だ。私がしたことも、どこか似ていたのかもしれない。どちらの信念にも手をつけないまま、測る対象だけを差し替えたのだから。栄誉を求める側も、地に足をつけたい側も、自分の信じているものを曲げる必要は、まったくなかった。


それぞれの「成功」

結果として、私たちは反イノベーション的なふるまいを、七つの経路から、受動的に捉える方法をつくり上げることができた。おそらく、これも前例のないものだったと思う。ただ、華々しくはない。「これを使えば必ずイノベーティブになれます」といった、聞いていて気持ちのいい商品ではないからだ。正直に言えば、華やかなグラフに惹かれる気持ちも、私にはよくわかった。誰だって、あなたはイノベーティブではありません、と面と向かって告げられて、嬉しい人はいない。だから次に取り組んだのは、装置が拾ったその信号を、咎める材料にせず、むしろそっと背中を押す合図に変えられないか、という工夫だった。これも、なんとか形にできた。

最終的には、センサーを組み込んだ三十から四十点ほどの什器が並ぶ、ひと通りのプロトタイプができあがった。栄誉を求めた側は、前例のない七つの経路と、論文として世に出せる知見と、日本の大企業への発表の機会を手にした。地に足をつけたい側は、誰も本気にしないような「イノベーション保証つき」の触れ込みではなく、本物の、測れる科学を手にした。ひとつの勝ちを、半分ずつ分け合ったのではない。それぞれが、それぞれの言葉で語れる成功を、別々に持ち帰ったのだと思う。

会社そのものの結末は、正直、華やかなものではなかった。w00rkは製品を売る会社ではなく、公的資金で動く研究会社で、そのまま量産へ進む道もなかった。プロジェクトが一段落すると、メンバーはそれぞれ元いた研究の場所へと戻っていった。誇らしげに、と言っていいと思う。私を含む何人かは、発表先だった大企業に助言者として残り、その関係のいくつかは、いまも続いている。広いオフィスのなかで同僚の居場所がわかるようにする仕組みや、イノベーションを促す環境音とそれを妨げる環境音の違い。あるいは、時間帯や作業の種類に合わせて調整される、二酸化炭素の濃度や室温や明るさ。そうしたもののいくつかは、今も実際のオフィスのなかに、静かに残っている。

いま振り返ると、あのとき二つの側が合意したのは、どちらが正しいかという結論ではなかった。これが、いちばん確かめるのに適したやり方だ、という一点だったように思う。同意していたのは、答えそのものというより、答えを確かめるためのやり方の方だったのである。


「素晴らしい決断」が測っているもの

ここで少し、視点を引いてみたい。そもそも私たちは、ある決断を「素晴らしい」と呼ぶとき、いったい何を測っているのだろうか。

以前、私は別のところで、あなたにとっての悪い決断は、誰かにとっては良い決断だ、と書いたことがある。どんな決断も、必ず誰かには悪いと言われる、と。一見すると、今回の話は、それと逆のことを言っているように見えるかもしれない。ただ、二つは矛盾しない。ここで言う「素晴らしい」は、全員が賛成したとか、客観的に正しかった、という意味ではないからだ。関わった人のうち、良い決断だったと言える人が、どれくらいの割合いるか。ただ、それだけの話だ。

私の感覚では、関わった人の八割ほどが良い決断だったと言えるなら、それはたぶん「素晴らしい決断」と呼ばれる。半分くらいなら、「妥協の決断」。二割ほどしか賛同しないのであれば、「物議を醸した決断」ということになるだろうか。どれが優れた決め方だ、という話ではない。ただ賛同の広がり方が違うだけのことで、そもそもその決断が、長い目で見て事業やプロジェクトを本当に良くしたのかどうかは、まったく別の話だ。「素晴らしい映画だ」と言うのに近いのかもしれない。史上最高の映画だとか、万人にとって最高だ、という意味ではない(そう言えば、たいていの人はその評価に異論を唱えるだろう)。ただ、良かったと感じた人が多い、というだけのことだ。

対立の古典的な整理では、もめごとは支配か、妥協か、統合かのいずれかに落ち着く、とされてきた。メアリー・パーカー・フォレット(Mary Parker Follett)の議論だ。統合とは、どちらの側も何かを諦めることなく、双方の根っこにある望みが同時に満たされる、第三の解を指す。私はこの見立てにおおむね同意するのだが、いまの時代の対立を、そんなにきれいに三つへ切り分けられるとも思わない。フォレットが描いたよりは、もう少し込み入っているように思う。

いずれにせよ、賛同の広がり、と口にした瞬間に、次の問いが立ち上がってくる。その賛同を、いったい誰について数えているのか、という問いだ。


その「お見事」は誰のものか

ひとつの決断のまわりには、立場のまったく違う人間がいる。決断を下す本人がいて、それを外から眺める外野がいて、そして、その決断の影響を実際に身に受ける人々がいる。同じひとつの決断を見ていても、この三者が見ているものは、まるで違う。

決断を下す本人には、少しばかり後ろめたい真実がある。どんな経営者も、口では何と言おうと、心のどこかでは毎回、素晴らしい決断を狙っている(もっとも、本人にその自覚があるかどうかは、また別の話ではあるけれど)。

いちばん声が大きいのは、たいてい外野だ。安く買い叩いた不良資産が、あっという間に値上がりしていく。周りは固唾をのんで見守り、お見事、と唸る。そうした感嘆の声が聞こえてくるのは、ほとんどの場合、この外野からだ。ただ、彼らの評価は、たまたま手元にある情報の量に、大きく左右される。そして、その決断をきちんと評価するのに必要な情報の多くは、そもそも表には出てこない。だから外野の評価は、どうしても主観的なものにならざるをえない。外野が悪い、と言いたいわけではない。正直に言えば、私自身、時にはその外野の一人になるし、離れた安全な場所から見事なものを眺めているのは、単純に気持ちがいい。ただ、その「お見事」は、素晴らしさの評価としては、おそらくいちばん安い層のものなのだと思う。

本当に重みを持つのは、その決断の影響を、実際に身に受ける人々の評価だ。決断を下した本人でもなく、外から眺める外野でもなく、その決断を、これから生きることになる人たち。もし、この人たちの全員が、あれは素晴らしい決断だった、と口を揃えるようなことがあったとしたら、それはもう、巧みだった、というだけでは説明がつかない。設計の巧みさに加えて、幸運にも恵まれていた、ということなのだと思う。

日本には、三方よし、という近江商人の言葉がある。売り手よし、買い手よし、世間よし。ただ、これはもともと、こう振る舞うのが良い、という商いの心得であって、下された決断を後から評価するための物差しではない。人が「素晴らしい決断だ」と言うとき、その根拠はたいてい、自分の立場から見えている眺めであって、全体を見渡した上での分析ではない。三方よしもまた、決断を下す本人の頭の中については、何も語らない。それでも、もし本当に三方よしを実現できたのだとしたら、その決断はおそらく、素晴らしい決断と呼ばれるのだろう。

ここまで書いてきて、ひとつだけ、はっきりさせておきたいことがある。私は、だから素晴らしい決断を目指しなさい、と言いたいわけではない。人が「あれは素晴らしい決断だった」と口にするとき、その言葉の裏側で、何が起きているのか。それを説明したかっただけだ。状況が違えば、ふさわしい決め方も違ってくる。世の中には、片方だけが得をする決断もある(敵対的な買収や、感情的な法廷闘争にもつれ込んでいくM&Aのように)。物議を醸した決断が、それだけで劣った決断だ、ということには、決してならない。

w00rkの話に戻りたい。あのとき私は、二つの側のどちらかを選ぶことも、間を取ることもしなかった。ただ、両者がにらみ合っていた土俵の方を、そっと組み替えただけだ。振り返ってみて、自分のしたことをいちばん正直に言い表すなら、こうなるのだと思う。私は彼らに、信念を変えてくれ、とは頼まなかった。ただ、測り方を変えてくれ、と頼んだだけだ。

要点

01

「素晴らしい」とは、決断そのものに備わった性質ではなく、その決断が降りかかる人々のうち、どれだけの人が得るものを見いだせたか、その割合についての評価にすぎない。

02

外野が上げる「お見事」は、その評価のなかでもっとも安い層だ。本当に重みを持つのは、その決断を実際に生きることになる、当事者たちの評価の方である。

03

全員が「素晴らしい」と言う決断は、巧みであると同時に、幸運でもある。そして、物議を醸した決断が、それだけで劣った決断だということには、ならない。

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